湯気の立つカップを両手で包んで、私は呼吸を数えた。
ミルクティーの甘い匂いが、胸の内側の小さなざわめきを丸めていく。
「今日、店で新作の試作だよね」
独り言みたいに言ってみると、言葉の端がきゅっと尖った。
楽しみのはずなのに、どこかで「間違えないように」と先に身構えてしまう。
大学の授業で習った言葉が、頭の引き出しから勝手に出てくる。
——予期不安。
未来の失敗を先に引き受けて、現在の心を削るやつ。
私は砂糖壺のふたを開けた。
金属が小さく鳴り、白い砂糖がさらさらと揺れる。
この音はなぜだか「大丈夫」を思い出させてくれる。
「大丈夫。試作だから」
言い聞かせるのが上手なのは、たぶん昔からだ。
上手すぎて自分が本当に大丈夫かどうかの判定は、いつも後回しになる。
焼き菓子店「クルミ灯」は大学から歩いて十分。
商店街の端っこにあって、午後の光が店のガラスにやわらかく溶ける。
ドアベルが鳴る。
バターと粉の匂いが私の緊張をいったん抱きしめてくれた。
「おはよ、ひより。今日、頼れる?」
店長の三好さんは、笑うと目の下に優しいしわができる。
私は反射みたいに頷いた。
「はい。いけます」
——“いけます”。
その言葉は便利だ。
どんな気持ちも隠せる。
でも、便利なものはだいたい味が薄い。
今日は新作マフィンの試作日で、テーマは「春の気分」。
この店は季節の焼き菓子が売りで、常連さんも多い。
だから“外さない味”が求められる。
求められる、というより、私は勝手にそう思っている。
「候補、三つ考えてきたんだよね?」
三好さんに言われて、私はメモを差し出す。
苺とホワイトチョコ。
抹茶と黒豆。
レモンとクリームチーズ。
どれも好きだし、どれも嫌われにくい。
「無難」という言葉を、私は心の中で丁寧に折りたたんだ。
「いいねえ。ひよりは“みんなが喜ぶ”をちゃんと考えるね」
褒め言葉のはずなのに、私の胃のあたりが少しだけ沈む。
“みんなが喜ぶ”を考えるのは得意だ。
でも、“私が喜ぶ”はいつも不鮮明で、輪郭がつかめない。
昼前、常連の春野さやさんが来た。
年は私より一つ上で、ふわっとした笑い方をする。
店に入ってくるだけで空気がほどける人だ。
「ひよりちゃん、今日の前髪、いい感じ。なんか春っぽい」
「え、ありがとうございます。……たまたまです」
私はたまたまって言ってしまう癖がある。
努力が見えると誰かに迷惑がかかる気がする。
褒め言葉を受け取ると、借りができる気がする。
さやさんはショーケースを覗き込みながら、当然みたいに言った。
「新作やるんでしょ? ひよりちゃんの好きな味、置いてみたら?」
「……好きな味」
口の中で繰り返すと、甘いのにちょっと苦い。
「でも、みんなが好きなのが一番ですよね」
私は“正解”を選ぶように答えた。
さやさんは首をかしげて、それから少し笑った。
「“みんな”って、誰のこと?」
その言い方が責める感じじゃないのが逆に怖かった。
やさしい問いかけは逃げ道を塞がない代わりに、自分の本音を照らしてしまう。
「……お客さん、です」
「うん。でもね、ひよりちゃんもお客さんの一人じゃない?」
言葉が耳の奥に落ちていく。
私は思わず手元のトングを握り直した。
金属がかすかに鳴った。
ひよりちゃんも。
その言い方は私の存在を“数”に入れてくれたみたいで、心が妙にくすぐったかった。
午後の仕込み。
私が担当するのはレモンとクリームチーズのマフィン。
レモンの皮を削ると香りがぱっと跳ねて、世界が明るくなる。
——好きだ。
私はこの香りが好き。
好き、という感情は胸の奥で小さく光る。
なのに私はいつもその光を「役に立つかどうか」で測ろうとしてしまう。
ボウルの中で生地を混ぜながら、私は心の中で自分に質問する。
もし、この味が“売れなかったら”?
もし、“普通”って言われたら?
もし、誰にも刺さらなかったら?
不思議なことに、売れないことより刺さらないことの方が怖い。
誰にも届かない=私の感覚が間違っている、みたいに感じてしまうから。
オーブンの予熱が上がり、店の奥が少し暑くなる。
汗がこめかみに滲む。
三好さんが覗いてきた。
「無理してない?」
「してないです。……たぶん」
“たぶん”と付け足したのは、嘘をつきたくなかったから。
けれど“たぶん”は便利だ。
曖昧にできる。
曖昧は、私の避難場所でもある。
三好さんは私の手元を見てから言った。
「ひよりは丁寧だよ。丁寧すぎるくらい」
「すみません」
反射で謝ってしまい、すぐに自分で嫌になった。
謝るとその場が丸くなる。
でも丸くなるほど、自分の形が分からなくなる。
「謝らなくていいってば」
三好さんは笑った。
その笑い方は、“ちゃんと人に期待してる”感じがする。
怖いけど、少し嬉しい。
焼き上がり。
オーブンを開けた瞬間、レモンとバターが混じった香りが立ち上る。
表面はきれいな焼き色——のはずだった。
一つだけ、ほんの少し膨らみが足りない。
見た目で分かるほど大きな失敗じゃない。
けれど私は失敗の粒を見つけるのが得意だ。
「……やり直します」
言いかけた私に、三好さんが手を添えるみたいに止めた。
「味、見てからでいい」
その言葉に私は喉の奥がきゅっとなる。
見た目の失敗を味で取り返せるかもしれない。
その可能性を許していいのだろうか。
試食用に切り分ける。
断面からクリームチーズの白が覗く。
一口。
レモンが先に来て、そのあとでチーズのコクが追いかける。
甘すぎない。
後味が軽い。
——好きだ。やっぱり。
私はその結論を、心の中でだけ抱えた。
声に出すと誰かに取られる気がした。
否定されたら消える気がした。
そこに、さやさんがタイミングよく戻ってきた。
カウンター越しに焼きたてを見て目を輝かせる。
「わ、なにこれ、いい匂い。食べたい」
私は一瞬躊躇した。
新作は“評価”とセットで差し出すものだから。
「……試作ですけど」
「試作って、いちばん楽しいやつじゃん」
さやさんは軽やかに言う。
その軽さに私は少し救われる。
重く考えているのが自分だけみたいで。
一口食べたさやさんは目を細めた。
「これ、好き。レモンがちゃんと春っぽいのに、酸っぱすぎない」
“好き”。
その一言が胸の奥の光を少しだけ大きくした。
「……ありがとうございます」
今度は、“たまたま”って言わなかった。
言わなかった自分を私はそっと褒めた。
閉店後、片付けをしながら、私は新作の名前案をノートに書いていた。
「春のレモンチーズ」
「レモンの朝」
「レモンと白い雲」
どれもどこか他人事だ。
売り場に置いたときの“説明のしやすさ”ばかりが先に立つ。
さやさんの言葉がまだ耳の奥で鳴っている。
——“ひよりちゃんもお客さん”。
私は砂糖壺のことを思い出した。
祖母の家でふたを開けるたびに聞こえた音。
あの音が好きだった。
それを好きだと言っても誰も困らなかった。
誰も怒らなかった。
「好き」って、本当はそんなに危険な言葉じゃないのかもしれない。
三好さんがレジを締めながら言った。
「ねえ、ひより。新作、ひよりの推しでいこうよ」
「……私の、推し」
推し、という言葉は、私の中の“許される好き”に近い。
誰かを好きなのはいい。
でも自分の感覚を好きと言うのは、なぜか勇気がいる。
「お客さんの反応も大事だけどさ。作り手が“これ好き”って思ってないと、たぶん伝わらないよ」
伝わらない。
その言葉が優しく刺さった。
私は小さく頷いた。
「……じゃあ、レモンとチーズで。私、これが一番好きです」
言えた。
言った瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
言葉が外に出ると、私の輪郭が少しだけはっきりする。
三好さんは「いいね」と笑って、すぐに続けた。
「名前、どうする?」
私はノートの余白を見つめた。
“正解っぽい名前”をつけようとすると、言葉が固くなる。
でも今は香りと一緒に思い出したものがある。
砂糖壺のふたの音。
ミルクティーの匂い。
自分を落ち着かせる小さな儀式。
「……『ふたの音マフィン』とか、変ですか」
言ったあとで、恥ずかしさが追いかけてくる。
変だよね、きっと。
意味が分からないよね。
でも三好さんは意外そうに目を瞬かせてから、ゆっくり笑った。
「変じゃない。むしろ、気になる」
「ほんとですか」
「うん。説明できるし。ひよりの話も一緒に売れる」
“ひよりの話”。
その言い方が、やけにあたたかかった。
私は自分の好きが商品になることより、自分の話が誰かに置き場所をもらえることに驚いていた。
翌日、店頭の手書きPOPにはこう書かれた。
新作:ふたの音マフィン(レモン&クリームチーズ)
ひよりの「落ち着く音」から生まれました。
さやさんがそれを見て、声を上げた。
「なにそれ、かわいい。……ねえ、ひよりちゃん。落ち着く音、今度教えて」
私は一瞬、言葉に詰まった。
教える、というのは、私の内側を少し渡すことだ。
でも今日は昨日より少しだけ大丈夫な気がした。
怖さは消えていない。
消えていないけれど、怖さの上に立てる気がする。
「……砂糖壺の、ふたの音です」
言うと、さやさんは「絶対いい」と笑った。
三好さんも「今度、店用に砂糖壺買う?」なんて冗談を言って、店の空気がふわっと明るくなる。
私はその明るさの中で、ふと思った。
“明るくしなきゃ”じゃなくて、
“明るくなってしまった”みたいな感じ。
それがすごく楽だった。
帰り道、冬の終わりみたいな風が頬を撫でた。
私はポケットの中で指を握ったり開いたりして、確かめる。
今日、自分の好きはちゃんと外に出て、ちゃんと残った。
たぶん、これが私の小さな成長だ。
誰かのためにだけじゃない日常を、少しずつ増やしていくこと。
駅前の花屋に黄色いミモザが並んでいた。
私は立ち止まって、しばらく眺める。
“春っぽい”って、こういうことかもしれない。
自分の中の小さな光を他人の目に合わせて消さないまま、外の世界に持っていくこと。
明日もミルクティーを淹れよう。
砂糖壺のふたを開ける音を聞こう。
そして、できれば——
「いけます」じゃなくて、たまには「今日はちょっとだけ不安」と言ってみよう。
その練習から始めても、きっと日常はちゃんと可愛いままだ。