【短編小説】 灰色の砂糖、ひとさじぶんのイラスト
大学の門を出ると夕方の空気はいつも少しだけ冷たくて、肺の奥まで「今日」を片づけていく。
私はその冷たさが好きだ。
熱いままの気持ちを持ち帰らなくていい気がするから。

駅へ向かう道を私はわざと一駅ぶん遠回りする。
正しい道じゃないけど間違いでもない。
角を曲がると看板が見える。

――灰色の砂糖。

古い喫茶店だ。
名前のわりに暗くはなくて窓辺の光はよく伸びる。
砂糖が灰色って変なのに。
初めて入ったとき私は「変」だと思ったことに安心した。
変なのにここに在っていい感じがした。

ドアベルが鳴る。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうで店主の女性が微笑む。
髪の白い部分が照明にふわっと透ける。
年齢はわからないけど声が落ち着いている。

「いつもの?」

「……はい。カフェオレ、甘さは普通で」

“普通で”という言葉にいつも少しだけ引っかかる。
普通って誰のだろう。
でも私はそれ以上を言えないまま窓側の席に座る。

テーブルの端に小さな箱が置かれている。
紙のカードが何枚か入っていて、上に手書きの札。

――ことば箱 ひとりごと歓迎。

名乗らなくていい。

これが置かれたのは先月からだ。
私が最初にカードを入れたのはたぶん、予定が全部うまくいった日の帰りだった。
うまくいったのに、なぜか胸が重かった日。

カードにはこう書いた。

『今日、きれいに笑った分だけ、ほんとは疲れてる。』

誰にも見せるつもりはなかったのに見せたくなった。
見せたい相手がいるわけでもないのに。
箱に入れた瞬間、息が少しだけ深くなって私はびっくりした。

その日から私はたまにここに寄り、たまにカードを書く。

書かない日もある。
書けない日もある。
書きたくない日だってある。

それでも箱があることが嬉しかった。
世界のどこかに「言っていい場所」があるというだけで。

カフェオレが運ばれてくる。
ミルクの白がコーヒーの茶に細い渦をつくる。
私はそれを見ながら今日の自分を探す。

ゼミで発表を褒められた。

「相沢さんは言葉が丁寧だよね」

教授はそう言ってくれた。
私は笑って「ありがとうございます」と言った。

でも帰り道、言葉が丁寧って何だろうと考えていた。
丁寧って角がないってこと?
誰にも刺さらないってこと?
それって私がいつもしている“削る”ことに似ている。

カードに何か書きたい。
書きたいのにちょうどいい温度の言葉が見つからない。

ペンを持ったままぼんやりしていると入口のベルが鳴った。
女の子が一人入ってくる。
大学で見たことがある気がする。
文学部の棟の廊下ですれ違ったような。
淡いベージュのコート。
髪は少し明るい茶色。
目の下に薄いクマ。

彼女は軽く会釈してカウンターで何かを注文し、私から二つ離れた席に座った。
机の上にノートとペンケース。
それとことば箱のカードを一枚、ためらいなく引き抜く。

――書く人、いるんだ。

私以外にも。

胸がちょっとだけ忙しくなる。
話しかける理由はない。
でも話しかけない理由ならいくつもある。
迷惑かもしれない。
変に思われるかもしれない。
私が勝手に「似てる」と感じてるだけかもしれない。

彼女はすぐに書き始めた。
迷いのない手つきというより、迷いを持ち歩くのに慣れている手つき。
私はその横顔を見ないふりして見てしまう。

私はカードに今日の気持ちを探して、いちばん嘘が少ない形にする。

『丁寧って、優しいふりのこともある。』

書いてから少しだけ怖くなった。
誰かを責めているみたいだ。
自分を責めているみたいだ。

私はカードを箱に入れるのをやめた。
カードを指で挟んだままカフェオレをひと口飲む。
甘い。
普通の甘さ。
私が選んだ普通。

隣の席の彼女は書き終えたらしくカードを箱に入れた。
その動作が私には「手放す」に見えた。
羨ましいと言うほどでもない。
けれど少しだけ真似したい。

――私も、入れよう。

でもその前に少しだけ言い換えたい。

私はカードの裏側に小さく追記した。

『丁寧でいたい。優しいふりじゃなくて。』

箱に入れる。
紙が落ちる音が思ったより軽かった。
それだけで今日の胸がほんの少し整理される。

会計を済ませて立ち上がるとき、彼女も同じタイミングで席を立った。
出口へ向かう短い距離で沈黙が並走する。
ドアの前で彼女が先にベルへ手を伸ばし、ふとこちらを見る。

「……その、ここ、よく来るんですか」

声が小さい。
けれどちゃんと届く小ささだ。

私は驚いて言葉が遅れる。
遅れるといつも諦めが先に出てくる。

――話さなくてもいいよ、って。

でも今日は諦める前にひとつだけ掴みたい。

「はい。通学の帰りに……たまに」

「……私も、たまに」

彼女は視線を落としてすぐに持ち上げた。

「ことば箱、……助かるんですよね。誰にも言わないままだとどこにも行けないから」

私は喉の奥がきゅっとするのを感じる。
同じだ、と思ってしまった。
同じって簡単に言うのは失礼なのに。

「わかります」

私はそれだけ言ってしまったと思う。
薄い。
薄いのに彼女は少し笑った。

「……わかる、って言ってもらえるだけで、結構、ほどけますね」

その言い方が丁寧だった。
でも優しいふりじゃなかった。
私は胸のどこかがちゃんと動いたのがわかった。

店の外は雨の匂いがした。
さっきまで降っていなかったのに空が準備をしている。

「傘、持ってます?」

彼女が聞く。
私は反射で「大丈夫です」と言いそうになる。
大丈夫は便利だ。
便利で私を小さくする。

私は一拍置いて言い直した。

「……持ってないです。よかったら、駅まで、途中まででも」

お願いする言葉は舌の上でまだ不慣れで、少しだけ痛い。

彼女は驚いた顔をして、それから頷いた。

「私も一本だけですけど……一緒に行きましょう」

傘を開く音は小さな始まりに似ている。
私たちは同じ傘の下に入る。
肩が少し濡れそうな距離。
近すぎない、遠すぎない。
雨が落ちてくる前に私はふと思う。

“丁寧”って、もしかしたらこういうことかもしれない。
相手のために形を整えるだけじゃなくて、自分の望みも相手に渡せる形にして、ちゃんと差し出すこと。

駅へ向かう道で彼女は自分の名前を言った。

「篠原(しのはら)です。……下の名前、言うの、まだ慣れてなくて」

「私もです」

私は笑う。
今度はきれいに笑うためじゃなくて。

「相沢みつき、です」

言うと少しだけ背中が軽くなる。
ただ名乗っただけなのに。

雨が降り始める。
傘の布に弾かれる音が会話の間を埋めてくれる。
沈黙がさみしくなくなる。
私たちはたぶん今日、何か大きな約束をするわけじゃない。
明日も劇的に変わるわけじゃない。

それでも私は知っている。
小さなお願いをひとつ言えた日が、あとから人生の形を変えることがある。

駅の手前で篠原さんが言う。

「また、書きます?」

「……はい。たぶん」

私は少し考えてから付け足した。

「たぶんじゃなくて……書きたいです」

篠原さんが、うん、と頷く。
その頷きが誰かの許可じゃなくただの受け取りであることが、私には嬉しかった。

灰色の砂糖はきっと甘い。
白でも黒でもないところに私の今日が置ける気がした。
ひとさじぶんの確かな甘さとして。
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