あかりは自転車をこぎながら鼻先に舞う花びらを追いかけた。
19歳の春。
大学に入って初めての新学期だ。
胸が少しざわつくのは期待なのかそれとも不安なのか。
自分でもよくわからない。
「今日もいい天気だね!」
自転車を止めていつものカフェに入ると、友人のみゆきが手を振っていた。
みゆきはいつも通り明るい声で話しかけてくる。
あかりは笑顔で応じる。
「うん、桜がきれいだよ。一緒に散策しようか?」
カフェのテラスで二人でおしゃべり。
みゆきは最近のドラマの話で盛り上がる。
あかりは相槌を打ちながら心の中で思う。
この瞬間は楽しい。
でもいつか別れが来るのかな。
幼い頃、父親の仕事で何度も引っ越しをした。
友達を作っては失う繰り返し。
それがあかりの心に小さな影を落としていた。
大学では文学の講義が始まった。
教授が古い和歌を読み上げる。
「花の色は うつりにけりな いたづらに…」
小野小町の歌。
あかりはノートにメモを取りながら胸が疼くのを感じた。
花のように儚いもの。
でも私はどうやってこの儚さを楽しめばいいの?
講義後、図書館のアルバイトへ。
静かな書架の間で本を整理する時間は、あかりの内緒の安らぎだった。
ここでは誰も自分の本当の気持ちを尋ねてこない。
夕方、弟の拓海から電話。
「姉ちゃん、今日の夕飯何?」
家族の声が遠くから聞こえる。
あかりは笑って答える。
「カレー作ろうか。桜の下で食べようよ」
陽気な声を出せばみんな喜ぶ。
でも心の奥で、本当は一人でいたい時もあるという矛盾が疼く。
数日後、図書館で珍しい客が来た。
少し年上の男の子、名前は浩太。
文学部の先輩で古い小説を探しに来たらしい。
「この本、ありますか?夏目漱石の『こころ』」
あかりは棚から本を取り出し渡す。
「これですね。面白いですよ、先生の孤独が…」
言葉が止まる。
浩太は穏やかに微笑む。
「君も読んだことあるの?僕、漱石の内省的なところが好きでさ」
その日から浩太は時々図書館に寄るようになった。
あかりは彼との会話が意外と心地いいことに気づく。
みゆきとのおしゃべりは表面だけ。
でも浩太とは文学の話が深い。
彼は私の影の部分を見てくれるかも。
でもすぐに心が引く。
また別れが来たら?
日本の春は美しいが桜は散る。
葛藤があかりの胸を締めつける。
ある日、浩太と一緒に桜並木を歩いた。
「この町、好き?」
浩太の質問にあかりは本音を少しこぼす。
「好きだけど時々寂しい。みんな忙しくて本当の話ができない気がする」
浩太は頷く。
「僕もそうだよ。大学に来て初めて一人暮らし。家族がいないと意外と心細いよね」
あかりの心が揺れる。
この人は陽気な私じゃなくて本当の私を見てくれる?
内面的な矛盾が少しずつ溶けていく予感。
夕陽が桜を染め風が花びらを舞わせる。
日常の他愛のない瞬間が初めて特別に感じられた。
週末、家族と桜の下でピクニック。
弟の拓海がはしゃぎ、母親が手作りのおにぎりを並べる。
あかりは笑顔で参加するが心は浩太の言葉を反芻していた。
孤独は悪いことじゃない。
でも共有できる人がいれば……。
夜、部屋で日記を書く。
あかりの内省の時間。
「今日の桜は儚いけど美しい。私の気持ちもそうなのかな。陽気さを保つのは疲れるけど、それでみんなを幸せにできるなら…」
ペンが止まる。
窓から見える夜桜が優しく揺れている。
翌日、浩太からメール。
「一緒に本屋行かない?」
あかりは迷う。
また一時的なつながり?
でも勇気を出して返事。
「うん、行こう!」
町の本屋で二人は古い詩集をめくる。
浩太が言う。
「君の笑顔、いつも明るいけど時々寂しそう。僕みたいに」
あかりの目が潤む。
「本当は、怖いんだ。人が離れていくのが」
初めての本音。
浩太は静かに聞く。
「それでいいよ。僕もそうだ。一緒に、少しずつ乗り越えよう」
春の終わり、桜が散る頃。
あかりは思う。
この出会いが私を変えるかも。
陽気な日常の中に繊細な成長の芽が生まれていた。
町の風が新しい季節を運んでくる。
夏が近づく頃、あかりの生活は少し変わった。
みゆきとのカフェタイムは相変わらず楽しいが浩太との時間が増えた。
二人は文学サークルに入り互いの内面を共有するようになった。
あかりの内的矛盾はまだ完全に消えない。
でも成長の可能性を感じる。
トラウマは消えないけど向き合える。
ある夕方、桜の木の下で浩太に言う。
「ありがとう。君のおかげで、陽気さが本物になった気がする」
浩太は笑う。
「僕もだよ。あかりの繊細さが僕を強くした」
他愛のない日常が愛らしい絆を生む。
日常の中に静かな共感を残して。