【短編小説】 緑色の泡と、黒いスーツのイラスト
六月の湿気は肌に張り付くような重たさを持っている。

駅のホームに降り立つと、梅雨入り前の曇天が私の気分をそのまま映し出したような灰色で広がっていた。
黒いリクルートスーツが熱を吸収し、背中にじっとりとした汗が伝う。

カツ、カツ、カツ。

慣れないパンプスの音がアスファルトの上で乾いた音を立てる。
今日二社目の面接が終わった。

「学生時代に最も力を入れたことは何ですか?」

「はい、私は古書店でのアルバイトを通じてお客様一人ひとりのニーズに合わせた提案力を磨きました」

嘘ではない。
でも、本当でもない。

私が古書店で力を入れていたのは古い紙の匂いの中で誰かが忘れていった栞を見つけることや、西日が差し込んで埃が金粉のように舞う瞬間を眺めることだった。
けれど、そんなことを面接で言えば「コミュニケーション能力に難あり」という烙印を押されるだけだ。

私は「社会人予備軍」という名の没個性な黒い量産型ロボットの一体として、今日も完璧に振る舞った。
はずだ。

スマートフォンの通知が震える。
就活アプリからの「お祈りメール」か、友人たちの内定報告か。
見るのが億劫で、私は画面を伏せたままバッグの奥底に押し込んだ。

帰りたくない。
アパートに帰れば、書きかけのエントリーシートと明日の面接対策という現実が待っている。

私は駅前の喧騒を避け、路地裏へと足を向けた。
以前、散歩中に見つけた古い純喫茶のことを思い出したからだ。

その店、『琥珀』は、時代に取り残されたようなレンガ造りの建物の二階にあった。
重厚な木の扉を押し開けると、カウベルがカランと控えめな音を立てる。

店内に流れているのは低い音量のクラシック。
珈琲と煙草の染み付いた匂いが、不思議と肺の奥を安堵させた。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

白髪のマスターがカウンターの奥から静かに声をかける。
客は私以外に、奥の席で新聞を広げている老人が一人だけ。

私は窓際の席を選んだ。
赤いビロードの椅子に腰を下ろすと、ようやく身体の力が抜けていくのがわかる。

「ご注文は」

「……クリームソーダをお願いします」

メニュー表も見ずに注文してしまった。
就活生の分際で、珈琲ではなく子供じみたクリームソーダなんて。
心の中で自嘲するもう一人の自分がいたが、今の私はどうしてもあの人工的な緑色を欲していた。

窓の外を小雨が降り始めていた。
ガラス越しに滲む街の景色は水彩画のように境界線が曖昧だ。

スーツ姿のサラリーマンも買い物帰りの主婦も、すべてが色の塊となって溶け合っていく。
私もあの滲んだ景色の一部になりたい。
輪郭を失って、ただの色になりたい。
名前も大学名も志望動機も必要ない、ただの湊という存在に。

コトッ。

テーブルに置かれたグラスの音で、私は我に返った。

「お待たせしました」

目の前に置かれたのは、完璧な姿をしたクリームソーダだった。
深いエメラルドグリーンの液体。
その中で無数に立ち上る微細な炭酸の泡。
頂上には真っ白なバニラアイスが浮かび、缶詰のサクランボが鮮やかな赤を添えている。
黒いスーツに包まれた私の世界に、そこだけ唐突に鮮烈な色彩が落ちてきたようだった。

ストローに口をつけず、まずはグラスの表面についた水滴を指でなぞる。
冷たさが指先から伝わり、熱を持っていた脳を少しだけ冷やしてくれる。

スプーンでアイスクリームの端をすくい、口に運ぶ。
甘い。
そして、冷たい。
懐かしいバニラの香りが鼻腔を抜ける。

それは就活のマニュアルにも自己分析シートにも載っていない感覚だ。
幼い頃、デパートの屋上で感じたような、純粋な充足感。

次にストローでソーダを一口。
シュワシュワと弾ける炭酸が喉を刺激する。
メロンシロップの、いかにも作り物めいた味が今の私には酷く優しかった。

複雑な社会の仕組みとか、建前とか、将来のビジョンとか。
そんな難解なものとは無縁の、ただ「甘くて美味しい」という単純明快な事実。

ふと、グラスの中でアイスクリームとソーダが混ざり合い、淡いパステルグリーンに変化していくのを見つめた。
白と緑が混ざり合って、また新しい色になる。
綺麗だな、と素直に思った。

私はポケットから、面接用にまとめていた髪を解くためのヘアゴムを取り出した。
黒髪が肩に落ちる。

首元までボタンを留めていたシャツの第一ボタンを外す。
大きく息を吸い込む。

「……美味しかった」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
グラスは空になり、氷だけがカランと音を立てて残っている。

窓の外の雨はいつの間にか本降りになっていた。
でも、不思議と気にならなかった。
私は手帳を開き、明日の面接の予定を確認する。

まだ、逃げ出すことはできない。
明日の私もまた黒いスーツを着て、借り物の言葉を喋るのだろう。
けれど、このクリームソーダの緑色を思い出せば、ほんの少しだけ呼吸ができる気がした。

私は財布から小銭を取り出し、席を立つ。
パンプスの踵を踏みしめる感覚が、来る時よりも少しだけ確かに感じられた。

「ごちそうさまでした」

マスターに告げたその声は、面接の時の作り声ではなく久しぶりに聞いた私自身の声だった。
店の扉を開けると、湿った風が私の頬を撫でる。
私は傘を開き、灰色の街へと再び歩き出した。
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