店のドアに取り付けられた真鍮のベルが少し間抜けな音を立てて鳴る。
「いらっしゃいませー!あ、田中さん!今日はクリームパン、まだ残ってますよっ!」
私の声が小麦の焼ける甘い匂いが充満する店内に弾ける。
自分でも驚くほど明るくて高くていかにも「元気な女子高生」という声だ。
常連の田中おじいちゃんが目尻のしわを深くして笑う。
「おや、こはるちゃん。今日も元気だねえ」
「えへへ、それだけが取り柄ですから!」
私はトングをカチカチと鳴らしながらわざと大げさにトレイを持って見せる。
カウンターの向こうレジ横のショーケースに映る自分と目が合う。
口角は完璧に上がり目は三日月の形。
よし、今日も私は「一ノ瀬こはる」だ。
みんなのマスコットでミモザの看板娘。
でもふと思う。
この笑顔の出力レベルを維持するのに、私の精神的カロリーはどれくらい消費されているんだろう。
「あ!」
袋詰めをしようとした瞬間、手元が狂ってビニール袋が床に落ちてしまった。
カサカサと虚しい音がする。
「やだもう、私ったら!ごめんなさい田中さん、すぐ新しいの出しますね!」
慌てて頭を下げながらテヘへと舌を出す。
おじいちゃんは「いいよいいよ、急がんから」と優しく許してくれる。
――あ、今、ちょっとホッとした。
失敗したことで「ドジなこはるちゃん」という役割が補強されたからだ。
完璧に仕事をこなすよりも少し抜けている方がみんな安心する。
愛される。
空気が和む。
それを計算ではなく反射神経でやってのける自分に時々ぞっとすることがある。
私は本当にドジなんだろうか。
それともドジという愛嬌を武器にしないと誰とも繋がれないと思っている臆病者なんだろうか。
午後六時。
商店街の空が茜色から群青色に変わる頃「ブーランジェリー・ミモザ」の客足は途絶える。
閉店作業の時間だ。
「店長、残ったパンどうしますか?」
奥の厨房に向かって声をかける。
白いコックコートを着た店長――私の叔父であるサカモトさんは巨大なオーブンの前で背中を向けたまま低く答えた。
「廃棄は出したくないからな。こはる、好きなの持って帰れ」
「やったあ!じゃあ、このちょっと焦げたメロンパンいただきます!」
私は売れ残りの棚からクッキー生地が少しだけ歪んで茶色くなったメロンパンを手に取った。
店長は無口だ。
愛想もない。
接客は全部私任せ。
でも私はこの時間が嫌いじゃない。
むしろ一日の中で一番呼吸が深くなる時間かもしれない。
店長は私に「笑え」と言わない。
「元気出せ」とも言わない。
ただ淡々と明日の仕込みのために生地を捏ねている。
その背中を見ていると張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じる。
……いや、緩んじゃだめだ。
沈黙が怖い。
何もしゃべらない空間はまるで水の中にいるみたいで息苦しい。
何か話さなきゃ。
面白いことを言って場を温めなきゃ。
「あ、あのね店長!今日学校でね、数学の先生が黒板消しと間違えてお弁当箱持っちゃって!」
私は努めて明るい声を出した。
静寂を切り裂くように。
「それでみんな大爆笑で!私なんか笑いすぎてお腹痛くなっちゃって!」
店長の手が止まる。
振り返った彼は粉のついた手で眼鏡の位置を直しながらじっと私を見た。
怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。
ただ静かな瞳だ。
「こはる」
「は、はいっ!」
「今、ここには客はいないぞ」
ドキリとした。
心臓が跳ねる。
え?どういうこと?話がつまらなかった?もっとオチが必要だった?
「……えっと、す、すみません。私、うるさかったですか?」
「違う」
店長は首を振り、作業台の上のボウルを指さした。
中ではふっくらとした白いパン生地が呼吸するように膨らんでいる。
「パン生地ってのはな、捏ねてばかりじゃだめなんだ。ベンチタイムっていう、休ませる時間が絶対に要る」
「ベンチ、タイム……」
「休ませないと、グルテンが強くなりすぎて、焼いた時に硬くなる。……人間も同じだろ」
店長はそう言うとまた背中を向けて作業に戻ってしまった。
私は手に持った少し焦げたメロンパンを握りしめた。
カサ、と袋が鳴る。
――休ませないと、硬くなる。
今の私はどうだろう。
誰かの期待に応えようと、場の空気を読もうと心を捏ねくり回してばかりいないだろうか。
柔らかくあろうとして逆にガチガチに固まっていないだろうか。
「……いただきます」
私は小声で呟いてメロンパンにかじりついた。
サクッとしたクッキー生地の下からふわふわの中身が現れる。
少し焦げた苦味が砂糖の甘さを引き立てていた。
美味しい。
売り物にはならなかったけれど、このパンはちゃんと美味しい。
私は椅子に座り込んだ。
何も話さないことにした。
面白いエピソードも自虐ネタも愛想笑いも全部やめた。
ただ店長が生地を叩く「タン、タン」というリズムだけが響く店内で黙々とメロンパンを食べた。
沈黙は怖くなかった。
水の中のような息苦しさはなく、むしろ温かい毛布にくるまっているような静けさだった。
「……店長」
「ん?」
「このメロンパン、美味しいです」
「そうか」
返事はそれだけ。
でもそれで十分だった。
私は窓の外を見る。
商店街の街灯がぽつりぽつりと灯り始めている。
ガラスに映った私の顔は笑っていなかった。
口の端にパン屑をつけてぼんやりとした間の抜けた顔。
でも不思議と。
ショーケースの前で完璧な笑顔を作っていた私よりも今のこの顔のほうがずっと「こはる」らしい気がした。
ベンチタイム。
私にもそれが必要だったんだ。
最後のひと口を飲み込んで私は小さく息を吐いた。
明日はまた元気に「いらっしゃいませ」と言うだろう。
学校で友達と大笑いするだろう。
それは嘘じゃない。
私の大切な一部だ。
でも今は。
「ごちそうさまでした」
私が小さく言うと店長は背中越しに片手をひらりと上げた。
そのぶっきらぼうな優しさに、私は今日一番の誰のためでもない自然な笑みをこぼした。